薩摩切子

鹿児島の魅力をご紹介します#38
薩摩切子
島津家28代 藩主 島津斉彬(しまづなりあきら)が完成させた薩摩切子。

19世紀イギリス、フランスなどの西欧列強が植民地を求めてアジアに進出し、日本にも欧米諸国が開国、通商を強行に求めていた時代。諸藩が軍備の近代化に力を注ぐなか、斉彬は富国強兵を掲げ、日本を強く豊かな国にしようとし、薩摩切子は海外交易品として開発された。源流をイギリス、ボヘミア、中国に求めながらそれを凌駕し、「ぼかし」などの日本的な特徴は斉彬の海外進出という壮大な夢に裏付けされた意匠だった。

薩摩藩におけるガラスの製造は、1846年(弘化三年)島津家27代 藩主 島津斉興(しまづ なりおき)の代に薬品に耐えるガラス器と試験や製煉に使用するガラス器具の必要から、江戸より加賀屋の徒弟、硝子師 四本亀次郎を招いて薬瓶などのガラス器を製造したのが始まりで、1851年(嘉永四年)島津家28代 藩主 島津斉彬の代になると、紅ガラス製法を研究させ、日本で初めての銅粉で発色する黒ずんだ赤色と、金粉で発色する透明な紅ガラスの製造に成功した。
僅か7年後の1858年、斉彬の急逝による財政整理のため集成館事業は縮小、さらには1863年の薩英戦争で工場は焼失して大打撃を受け、明治10年(1877年)の西南戦争前後に薩摩切子の技術は跡絶えた。

それから約100年後、斉彬が築いた世界に誇るガラス工芸の歴史を再興させたいとの熱い思いから1985年にゆかりの地、鹿児島市磯に薩摩ガラス工芸が設立。まさに世紀を超えて薩摩切子は鹿児島の地に甦った。紅・藍・紫・緑の4色の薩摩切子を復元し、更に深い色彩から透明へと移り行く美しいグラデーションと繊細なカット技術を駆使。伝統を生かしながら創意工夫を凝らした二色被せなど、新しいタイプの薩摩切子の製造にも積極的に取り組んでいる。

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